生き方、老い方
連休中に会ってきた夫の祖父母たち。
まず会いに行った
母方のおじいちゃんは、
頭も心もしっかりとされていて、
昨年食道がんに侵され、食道がっつり切って流動食、抗がん剤という辛い治療に耐えたのに、
今年になって別の場所にあちこちまた別のがんがたくさん見つかってもう打つ手なし。
「ぼくはあとどのくらいですかね」
と自ら医者に切り出し、「半年です」と言われた。
会いに行ったらニコニコ笑顔で、これ食べ、あへ食べ、と冷蔵庫からミカンやらイチゴやらたくさん出してくれた。
ピースサインでひ孫と写真に写り、
『今日は来てくれてありがとうね』と。
その奥さんである
おばあちゃん。
認知症がかなり進んでいるけど、体は健康。
施設で車イスに座らずしっかり立っているのは、おばあちゃんだけ。
認知症の高齢者たちがズラリと並んでお昼を待っている時間帯におじゃましたのだけど、
うちの5歳と3歳の登場に
みんな口々に「わぁかわいい。かわいい。どこの子やろね。」
と握手を求めてきたり。動物園のペンギン散歩のよう。
その列のなかに、おばあちゃんもいた。
我々がおばあちゃんの前で足を止めて、
「あなたのひ孫ですよ。」と告げたら
「わたしの?」と
ぽろぽろ泣き出してしまった。
「ごめんねー、なんも分からんの。分からんのよ。ごめんね。かわいい。かわいいなぁ。」
と、ぽろぽろ。
おばあちゃんには過去も、未来もなくて、
ただ、『今』があるだけ。
ごはんの時間ですよ、と職員さんに呼ばれて顔をあげたら、
もう一度こちらを振り返ったときにはまた「?どなた?」となってた。
ただ、今、この瞬間だけを生きている。
前も後ろもなく、いま目の前にいる人が可愛ければ幸せ。
いま口のなかで噛んでるご飯が美味しければ幸せ。
そういう幸せな時間を、残りの人生でただただ積み上げ、
いや、積み上がってはいかないな。
ただただ、過ごしていく。
最後に会ったのは父方のおじいちゃん。
とてもお金があるので、都会のど真ん中の高級なホームで暮らしているけれど、
目も耳も、機能しているのやらしていないのやら。虚ろに天井を見て、こちらをチラリとも見なかった。
時々、奥さんに「おい眩しいぞ」「おい暑いぞ」と訴えるけど、
カーテン閉めたら開けろと言い、電気消したらつけろと言い、布団もかけろ、どけろ、かけろ、どけろ、を繰り返す。
どこまで本当に感じている要望?なのかが分からなかった。
とりあえず意志疎通はまったくはかれなかった。
どう生きて、
どう老いるのが
一番幸せなんだろう。
少なくとも、ニコニコ笑って話せたのは
余命宣告されたおじいちゃんだけだった。
体が健康でも、
お金があっても、
…ね。
幸せって、
なんだろう。